Benarkah hubungan Indonesia-Jepang sudah berlangsung selama 65 tahun? Kenapa hanya 65 tahun saja? Bukankah pada tahun 1942-1945 Jepang pernah melakukan penjajahan di Hindia Belanda (Indonesia)? Kalau kita hitung, di tahun 2023 sudah lebih dari 65 tahun, kan? Apakah benar Hubungan Indonesia dan Jepang terjalin selama 65 Tahun di tahun 2023? Menanggapi pertanyaan pembuka di atas,... Continue Reading →
Nihongo No Mori 日本語の森文法N2#1/36 ~たとたん(に) VS ~(か)と思う
Tulisan ini didasari pembahasan 日本語の森 yang bisa di akses pada chanel youtube dengan judul #1/36 ~たとたん(に) VS ~(か)と思う. Pembahasan kali ini, Yuki Sensei menjelaskan dan membandingkan tentang 2 (dua) bunpou Bahasa Jepang level 2 yang memiliki kemiripan dalam penggunaannya yaitu; 〜たとたん(に) dan (か)と思う/と思ったら。 1.〜たとたん(に) Arti : Tiba-tiba Penggunannya: Ketika kejadian A telah terjadi tiba-tiba saja ... Continue Reading →
JLPT日本語能力試験N2文法 (あげく, あまりに, 以上, 一方で, 一方だ, 上に, 上で, 上は)
Tulisan ini terinspirasi dari chanel Nihongo no Mori, dan saya hanya sedang berupaya memahaminya dalam konteks Bahasa Indonesia. untuk hal itu, mari kita bersama memperbaiki apabila saya kurang memahami konteksnya. 1. あげく = 結果 (Kekka) Arti: Setelah, Akhirnya 悩んだあげくスパゲティを食べた Nayanda ageku spaghetti wo tabeta Setelah kebingungan akhirnya memilih spageti untuk dimakan 迷ったあげく何も買わなかった Komatta ageku nani mo... Continue Reading →
結婚で日本に移住したフィリピンの女性たち
広島大学、2017年7月12日、発表した アウトライン。。。。。。 アジアの中を移動する女性たち 『結婚で日本に移住したフィリピンの女性たち』 長坂格 この論文ではこれら日本在住のフィリピン人結婚移住女性のライフヒストリーを紹介することで、彼女たちの、微細な差異を伴った移住以前の生活や移住経緯、さらには移住後の社会生活の再構築の特徴を明らかにすることを試みる。 研究方法 この論文ではインタビュー方法を適用した。インタビュー内容は、出身地での経験、移住過程、結婚後の生活である。同じ地域に居住するフィリピン人結婚移住女性たちのストリに見出される、こうした強調点の違いや個別の事情の違いをなるべく活かした記述を心がけたい。 具体的には、彼女たちが移住以前にフィリピンでどのように暮らし、その後いかに日本人男性と結婚するに至ったのか、また結婚移住後にいかなる生き方を模索してき たのか、そしてそれは彼女たちの移住生活経験、そして自己意識といかなる関係を持つのかなどといった点を、彼女たちのライフヒストリーを記述する中で検討してみたい、そして彼女たちのライフヒストリーに見いだされる結婚移住女性たちの異なる移住経路や、その中でのよりよき生への摸索に注目することで、経済力、政治力、そしてステレオタイプ化されたイメージによって差異化、分断されるアジアを、人々がどう経験し、そしてどう乗り越えようとしてきたのか、その一端でも描き出すことができればと思う。 フィリピン から 日本 へ の 結婚移住 フィリピンは、1974年以降、移住労働者の送り出しを政策的にすすめてきた。フィリピン人女性の多くは東アジア、西アジア、ヨーロッパ、北米諸国などへ、看護、介護、家事労働の分野での就労を目的に移住していった。 日本への就労目的の移住は、1980年代初頭以降、日本の在留資格「興業」を通しての、ホテルやナイトクラブでエンターテイナーとして就労する若年女性の移住が中心となるという、他の国に見られない特徴をもっていた。 1994年以降は、「アーティスト」としての認定を受けた後、「興業」ビザを申請することになっていた。「興業」ビザで来日するフィリピン人女性の数は、2003年には年間000人以上に達した。 1980年代以降の日本人男性とフィリピン人女性との国際結婚の増加の重要な背景となった。フィリピン人女性と日本人男性の結婚は、日本人男性の国際結婚相手の出身国統計にフィリピンが記載されるようになった1992年の段階で、5771件となっており、その年の日本人男性の国際結婚相手の出身国としてはトップであった。 その後、日本人男性と結婚した女性の出身国トップは中国に取って代わられるが、それでも7000組前後の日比カップルが毎年生まれた。さらに「興行」ビザ発給基準の厳格化がなされた2005年と翌年には000組を超える日比結婚が行われている。ただし、その後日本人男性とフィリピン人女性の結婚件数は徐々に減少している、2013年には3118組にまで減少した 結婚移住女性 の ライフ ヒストリー ケース1 ジョアンナ2005年に九歳年上の男性と結婚 ジョアンナは1977年、五人兄弟の11番目としてマニラ近郊の州で生まれる。父は、フィリピンで庶民が利用する乗り合いバスであるジープニーのドライバーで、母はマニキュリストをしていた。他にごく小規模な養豚も行っていた。父親のキョウダイが同じ敷地内に住んでいる。子ども時代の生活は「大変だった」。 そのうちイトコから、日本で働く「タレント」をリクルートする男性を紹介された。その男性は、自宅に何度もジョアンナを勧誘にきた。「日本に行ったらすごいお金が貯まるで」と言われ、自分も行きたいと思うようになった。 A市近くの町で働いているときに、ジョアンナは10歳年上のトラックの運転手である未婚の独身男性、武田と出会った。四回目の契約が終了するとき、それ以前にフィリピンのジョアンナの家を尋ねたこともあった。武田は、彼女に結婚を申し込んだ。 結婚する後にジョアンナが、喜んでほしいからと子供にプレゼントをあげることに対して義母から「もったいない」と反対されることにストレスを感じたこともあった。 義母との同居も必ずしもスムーズではなかった。義母がすべてを決めることや夫の食事を作り続けることにも抵抗を感じた。そこで3年前から夫とも相談し、食事は自分たちで作ることにし、家計も分離することにした。 ケース2 ジャネット2004年に10歳年上の男性と結婚 ジャネットは1967年7人キョウダイの三番目として生まれた。父親は溶接工、母親は主婦であった。日本には妹が1人、A市内で結婚移住して住んでいたが最近離婚した。友人は、ジャネットの10歳年上で地元の建設会社に勤務する、離婚経験のある日本人男性上田を紹介した。 上田は、ジャネットに会うために、2003年の10月にフィリピンを訪れた。 結婚する後、11年間は「喧嘩ばかり」だった。夫は酒をよく飲み、友人と酔っぱらって騒いだりすることに加え、パチンコに出かけることが多かった。「夜、仕事かえってから、シャワーするだけ。一緒にご飯食べて、すぐに(パチンコに)出ていく」。最初の家は、A市の中でも山間地域だったので、「わー、この山ばっかりのところで、一人でどうするの」と泣いてばかりいた。 ただ二人の間に男の子が生まれ、成長していくと夫のパチンコ通いは止まった。ジャネットは、子どもが幼稚園に入ってからまず自動車部品工場で働くようになった。その仕事は、夫を紹介してくれたフィリピン人の友人と一緒だった。現在は、ハローワークで紹介された食品加工工場 に移り、そこで四年間働いている。 ケース3 リサ2008年に2歳年上の男性と結婚 リサは1966年に、マニラ近郊の州で8人兄弟の5番目に生まれた。父親は警察勤務で母は化粧品の販売などをしていた。 父親は、警察官としてのキャリアの後半には専門分野の教官をしており、ある程度の地位にあったと推測される。 結局リディアは日本に行き、最初の数回の契約ではホテルでフォークダンスのショーをおこなうダンサーとして働き、後に、より給料が高いクラブの「タレント」として働くようになった。リサは、大学在学中であった1988年に、「そのときは流行っていたから」と「タレント」として日本に行き、その後名古屋や東京で9年に渡って働いた。 9年後に地元に帰ったときに、同じプロモーションから日本に行った友達から、その兄ジュニーを紹介された。やがてジュニーと交際をするようになり、結婚することになった。結婚して電気修理店を営む夫の家に住み始め、夫の商売を手伝いながら3人の子どもを持った。ところが3人目の子供が生まれた後、しばらくして夫ジュニが癌で急逝してしまった。 山崎は離婚経験がある、リサより11歳年上の男性だった。山崎から日本滞在中に求婚されたとき、リサは再婚に対して大きな不安があった。 フィリピンに帰って自分が働き、これから子供を学校に行かせることができるかどうかと思う一方で、たとえ自分のことを愛していても子どものことを放っておくような男性と結婚したら子どもがどうなってしまうのかを考えると、すぐに結婚に踏み切ることはできなかった。 そこでリサは「私には子供が3人いる。もし私のことが好きなら、私のことだけじゃなくて子供まで大事にしてくれれば私もちゃんと、ね、奥さんになりますよ」と言い、子供を呼び寄せる計画も伝えた。 リサは山崎が断ると思っていたが、次の日に「それでもいい」と言ったので、再婚することにした。 12月に結婚して、正月には「田舎なので」夫の親や兄の家に挨拶に行った。 夫が再婚について何も言わなかったので夫の兄は怒っていたという。 社会関係と自己意識の再構築 彼女たちの語りは、フィリピンでの出身階層が微妙に異なる女性たちが、日本とフィリピン両国で様々な関係を取り結びながら、異なる移住経路を辿ってフィリピンから日本への結婚移住に至ったことを示していた。 例えば庶民層に一般的な職業であるジープニーのドライバーを父に持つジョアンナは、周囲の日本帰りの人の話を聞くことで、「家族のために」と日本での「タレント」としての就労を決意した。 フィリピンのメディア上の日本で就労するフィリピン人女性のイメージもあり、父親の強い反対を受けるなどしたが、反対を押し切って日本に移住した。 その後店で会った男性の求婚を受け、迷いながらも「日本に残りたい」と考え、「私だけでなく、私も家族も(幸せにして)」と告げて結婚することにし、「これからは旦那さんのことだけしか見ない」と決意した。 ジャネットは、社会的上昇のチャンスを持つ海外契約労働者の父を持ちながらも、父親の就労先での怪我などで生活の安定が得られない状況で、複数の仕事をかけもちして生活してきた。 しかし30代半ばで結婚願望が高まり、日本在住の結婚移住をした友人から男性を紹介され、フィリピンの教会で式を挙げて結婚に至った。 リサは、ある程度の地位にある警察官を父に持つが、日本で「タレント」として働く妹や周囲の人の影響を受け、大学を中退して、日本で「タレント」として8年間働いた経験を持つ。 その後、フィリピンで「タレント」仲間の兄と結婚したが、3人の子供を持った後に夫が急死し、生活が困窮する中、日本在住の妹から紹介を受けた日本人男性の求婚を受け、子どもを連れてくる希望があることをあらかじめ伝えた上で結婚した。 日本人家庭に単身で参入することによって生じる彼女たちの不確実性と困難についてみていくと、日本へのフィリピン人結婚移住女性の場合、一般に、他の国へのフィリピン人の移住において重要性を持つことが多い親族のネットワーク、あるいは業者等の斡旋ネットワークへの依存の度合いがきわめて低い。... Continue Reading →
Belajar Dari Budaya Jepang
Ditayangkan live tanggal 30 Apr 2017 Pemateri: Muhammad Reza Rustam, M.Si (Graduate School of Letters, Hiroshima University) Moderator : Muhammad Zulhaj Aliansyah (Graduate school of Engineering, Hiroshima University) https://youtu.be/IY_Uz6YSEak
Reformasi dan Peran Agama di Jepang Reformasi Budha, rekayasa Shinto dan peran Kristen ~ Susy Ong
Jika ditanya tentang agama yang dianut, orang Jepang pada umumnya menjawab ‘tidak beragama’ (kecuali kalau orang tersebut beragama Kristen). Kalau ditanya terus, maka kemungkinan besar mereka akan menjawab ‘agama Budha’. Menurut data hasil survei Biro Urusan Agama, Direktorat Budaya, Kementerian Pendidikan Jepang, per 31 Desember 2015, populasi umat Shinto 89,5 juta, Budha 88,7 juta, Kristen... Continue Reading →
Rekayasa Budaya Tradisional di Era Modern ~ Susy Ong
Pada tahun 1912, Basil Hall Chamberlain (sarjana Inggris), mantan profesor filologi pada Universitas Imperial Tokyo, menulis dalam bukunya yang berjudul “The Invention of a New Religion”: As for Bushido, so modern a thing is it that neither Kaempfer, Siebold, Satow, nor Rein—all men knowing their Japan by heart—ever once allude to it in their voluminous... Continue Reading →
日本軍植民地主義を考える
Muhammad Reza Rustam、広島大学、2017年4月24日 総合人間学のレポート 植民地主義についてはすでに多くの研究がある。一般的には植民地主義とは、国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが目的となる。さらに、植民地主義を正当化するのは、植民者が被植民者より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、被植民者にとって利益になるのだという考え方である。この講義を受けるまでは、私は全ての日本の植民地政策が良くないと考えていた。なぜかと言うと、台湾、中国、韓国を含む東南アジアでの日本による植民地化は、日本の軍隊によって計画され実践されたものだったからである。しかし、このクラスで行われている議論によって、私の考え方は少し変わり始めている。 例えば、韓国は1910年から1945年までの日本の占領下では、日本統治時代の朝鮮と言われていた。そして1895年から1945年まで澎湖島「Penghu Island」は台湾に含くまれていた。また、中国南京では、1937年12月13日に満州事変が起きた。著者と歴史家のIrish Chang『The Rape of Nanking』によるとその6週間の間に30万人が日本軍によって殺された。今日まで、毎年9月18日には中国の人々は満州事変を思い出す。この事件は、中国と日本の関係に良い影響を与えない。 だが、インドネシアにおいて太平洋戦争(大東亜戦争)最中の日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配が崩壊した(1942年2月)。東インドを占領した日本は、日本陸軍の今村均中将により全域を軍政支配下に置いた。石油をはじめとする天然資源の確保のため、軍政に現地住民の協力をとりつける必要があったこともあり、今村中将による軍政下ではインドネシア人に対する緩和政策を基本とし、大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とすることが決定された。(Wikipedia) インドネシアで日本軍はプロパガンダを行い「Saudara Tua = 日本とインドネシアは兄弟である」とした。しかし、実際にインドネシアで日本軍はまた、韓国や中国や台湾と同じことをした。日本の占領中インドネシアでは、主にジャワ島おいて殺人と強姦と収奪などが発生しました。このクラスには、日本、韓国、中国、インドネシアにルーツを持つ人がいる。それぞれの国における日本の植民地支配、植民地主義についてどう思いますか?あなたの国で日本の植民地支配について学びましたか?また、日本の学校では植民地支配、主義について、東アジアと東南アジアにおける日本の植民地支配について学びましたか?
Reformasi adat di Jepang – Susy Ong
Sejak pertengahan abad ke-20 sampai sekarang (awal abad ke-21), Jepang dikenal sebagai salah satu negara modern dan maju , disegani oleh negara-negara lain di dunia, dengan tingkat pendidikan (termasuk tingkat penguasaan teknologi) & tingkat kesejahteraan hidup rakyat serta pendapatan per kapita yang tinggi, dan tingkat kesenjangan sosial, tingkat pengangguran dan tingkat konflik sosial yang... Continue Reading →
Kanikosen (Kobayashi Takiji) “bacaan liar” tahun 1920-an dalam rentang sejarah Jepang
Rangkaian tulisan dibawah ini merupakan abstrak dalam jurnal sastra bahasa dan budaya Jepang (Jurnal Izumi Vol.5 No.1, Univ.Diponegoro, Semarang, Jawa Tengah, Indonesia). Untuk bagian lengkap dalam jurnal ini, bisa anda unduh pada link yang terdapat dibagian bawah gambar. Tulisan ini mendeskripsikan tentang dinamika kesusastraan proletar jepang dan hubungannya dengan novel karya kobayashi takiji “kanikosen” meliputi... Continue Reading →